ムラノガラス 歴史

【ヴェネチアンガラスの歴史】

古代シリアと古代ローマのガラスの歴史

ヴェネチアンガラスは、ムラノ島を中心に作られる工芸品で、4000年前の紀元前のシリアでの生産が起源とされています。ヴェネチア共和国の歴史に翻弄されたガラス職人達がムラノ島に徐々に集まり、ヴェネチア共和国の政府の庇護の下で世界的な名声を得ることになりました。

ガラスは、古代シリアに起源があり、地中海周辺で生産されていました。古代ローマ時代の紀元前1世紀から西暦3世紀にかけて飛躍的に技術が発達しました。さまざまな装飾が施された美しいガラスの器や杯が、地中海周辺の遺跡や墳墓から数多く発見されています。

ヴェネチアの島と周辺の島々の起源は、現在のイタリア本土側のヴェネチアの島々周辺に暮らしていて、紛争から逃れてきた人々によって築かれました。ラグーンに最初に移住した人々の中には、ローマ帝国の元市民もいました。ローマ社会では、紀元1世紀頃から家庭用、宗教用、装飾用のガラス製品が生産されていたことが知られています。その後、東方からの移民、特にコンスタンティノープルから逃れてきた人々は、ガラス製造の技術や東方で採用された製造工程に関する幅広い知識を持ち込みました。

ムラノ島は、北部のラグーンにある他の多くの島々と同様に、ローマ帝国の崩壊と5世紀後半の蛮族の侵略を逃れたローマ人によって設立されました。当初、ムラノ島の主な商業活動は漁業と塩の取引でした。

7世紀から始まったヴェネツィア共和国建国初期の時代、ムラノ島には、独自の大評議会があり、独自の通貨も鋳造されていました。13世紀頃ようやくムラノ島はヴェネツィア共和国が統治するようになりました。

ヴェネチアのガラスの歴史

ガラスの製造は、何世紀にもわたり、ヴェネツィア共和国の最も重要な商業産業でした。ヴェネチアのガラス瓶製造職人ドミニクス・フィオラリウスに関する最初の文書記録は982年にまでさかのぼります。一方で、考古学的研究によると、ヴェネチア共和国成立以前から、トルチェッロ島でガラス製造が行われていたことが判明しています。

1082年、コンスタンティノープル(現在イスタンブール)を首都としていたビザンチン帝国(東ローマ帝国)皇帝の勅令で、ビザンチン帝国とヴェネチア共和国の交易が承認されたことにより、ヴェネチア共和国は貿易立国としてヨーロッパの強国となっていきます。こうした情勢を背景に、ヴェネチア共和国には早くからシリアなど東方のガラスに関する最新技術がもたらされていました。

1204年、東ローマ帝国が第四回十字軍により実質的に滅ぼされると、コンスタンティノープルから逃げ出したガラス職人の中にはヴェネチアにたどり着いた職人もいました。

13世紀 ムラノ島へのガラス 職人の強制移住

1291年に、ヴェネツィア島内からすべての炉をムラノ島に移すまで、ヴェネチアの島で、ガラス製造、特に鏡や瓶類が製造され、商業的に成功を収めていました。ムラノ島にも炉はありましたが、当時はヴェネツィア中心部の「リヴァ・アルト(今日のリアルト界隈)」と「ドルソドゥーロ(アカデミア界隈)」にガラス炉や工房が集中していました。 こうして、ムラノ島はヴェネツィア共和国の保護のもと、何世紀にもわたって、文字通りガラス製造技術の国際的な中心地となり、ガラス製造とガラス製品の両方において、世界的な進歩の中心地となりました。

ムラノ島は、世界初の工業地帯とされています。すべての炉がムラノ島に移されたことで、ヨーロッパの産業革命の500年前に、世界初の工業地帯と呼ばれるエリアが誕生しました。数百年間、ムラノ島はヨーロッパにおける商業用ガラス生産の独占を維持していました。

1291年にヴェネチア共和国政府が発布した法令により、ヴェネチア島内にあったガラス工房はすべて排除され、ガラス職人は全員ムラーノ島へ移されました。この強制移住を、ヴェネチア共和国政府が世界的に有名になりつつあったガラス工芸技術の秘密を他国から守るために実施した、と書いている文献があり、今日もそう伝えられれていることが多いですが、実際には、政府がそのような目的で移住を実施したとする説は16世紀になってからという説もあります。それゆえ、ムラノ島へのガラス職人たちの強制移住の本当の理由は、ガラスの溶解炉は高温の必要があるゆえ、製造工程中にヴェネチアの島での火事が絶えなかったことが主な原因と指摘されています。

いずれにしても、ムラノ島への移住は、ガラス職人の活動をコントロールするためにも、世界に知れ渡るガラス工芸を守るためにも、ヴェネチア共和国政府にとっては好都合でした。ガラス職人がムラノ島に居住することを義務付け、特別な許可がない限り島を離れることを禁止しました。ガラス職人として登録された人しかガラス製造に携わることができず、その代わり、利益や特権が与えられました。 

ヴェネチア共和国政府は、早くから繁栄するガラス産業の潜在的な重要性を認識し、その保護と振興に努めました。12世紀から13世紀にかけて、東方貿易で拡大するヴェネツィア共和国は、自由貿易協定を交渉し、地中海、聖地、東方に保護貿易植民地を設立しました。

ガラス貿易は急速な発展を遂げ、1271年、大参事官は国内のガラス産業を保護するために、外国産ガラスのヴェネツィアへの輸入を禁止し、外国人ガラス職人が市内で働くことも禁止する措置をとり、そのわずか20年後には、市内にあるすべての炉をムラノ島に移転させるという条例が発布されました。

ムラノ島への炉の移転、つまりガラス職人とその家族の移転は、ヴェネツィア共和国による一連の奨励と同時に制限を伴うものでした。ガラス職人たちは、当時の他の職人よりもはるかに高い社会的地位を獲得していました。ガラス職人の娘たちは、ヴェネチア共和国の貴族に嫁ぐことも許されていました。また、ガラス職人は剣を持つことが許されていました。こうした特例は、ガラス職人たちを島に移住させるだけでなく、彼らの子供たちがガラス製作を続けるための励みにもなりました。また、これらの措置は、島内だけでなく、家族内でもガラス製造の秘密をより良く守ることにもつながりました。

一方で、ヴェネチア共和国は、ムラノ島のガラス職人は共和国の許可なくヴェネツィアから出ることを禁じ、許可なく出国した職人は、帰国後には職業別組合(ギルド)から追放されました。当時、ムラーノ島のガラス工芸の秘密を海外に輸出することは、死刑に値する犯罪とみなされていました。

こうした規制を設けることで、ムラノ島にガラス職人が集中し、互いに接近していた効果のひとつは、技術やアイデアの交換で、ヴェネツィアでのガラス生産が急速に拡大し、ガラス製造そのものに大きな革新がもたらされました。

ヴェネチアンクリスタル

水晶のように透明なムラーノガラスでをさしました。ムラーノのガラス職人たちは、芸術家やガラス製品の生産者であるだけでなく、ガラス製造の科学そのものの革新者でもありました。ガラス製造における最も重要な開発は、15世紀には、巨匠アンジェロ・バロヴィエは、世界で初めて真の透明なガラス「ヴェネチアンクリスタル」の製造プロセスを発見しました。「ヴェネチアンクリスタル」のグラスや水差し、花瓶はすぐに人気を博しただけではなく、この新しい発見は、ガラス製造技術革新の道を開き、ガラス職人たちが世界で初めて「鏡」を製造しました。

アンジェロ・バロヴィエールが築いた洗練された技術、広範な材料の知識によって、ガラス工房は以前より、さまざまな選択が可能になり、美しい作品が次々に誕生しました。ガラスはどんどん薄くなり、ヨーロッパの富裕層の食卓やサロンを飾るのに相応しい質を誇るようになりました。

ボヘミンガラスの登場

ただし、こうした厳しい規制は逆効果も生み出しました。強制的にムラノ島に移住させられ、納得がいかないガラス職人の中には、ムラノ島から逃げ出した職人も多くいたそうです。15世紀半ばに、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡して、この頃からヴェネチアのムラノ島から抜け出してボヘミアに移住するガラス職人が増え始めました。それによってガラス職人の経験、知識、技術が島外に流出してしまいました。これが原因してムラノ島のガラス工芸に問題が起こりました。

その要因のひとっつは、ボヘミアンガラスの普及が原因です。チェコのボヘミアにおけるガラス工芸の歴史は、13世紀にさかのぼり、すでに13世紀のボヘミアにヴェネチアンガラスの製造技術が伝えられており、15世紀には徐々にヴェネチアンガラスを手本としたガラスがチェコでも多く製造されるようになりました。

ムラノガラスのシャンデリア

ムラノ島の職人は、こうした危機を、シャンデリアの製造により乗りこえました。ムラノのガラス製造の秘密が何世紀にもわたって徐々に広まっていったことは事実ですが、ムラノのガラス職人が本格的にボヘミアンガラスと競争することになったのは、1600年代後半から1700年代前半にかけてボヘミアからやってきたコールドカットのクリスタルガラスでした。ボヘミアンスタイルのダイヤモンドカットグラスは、ヨーロッパの貴族の間で人気を博しました。

ボヘミアのガラスとムラノのガラスは両方とも彫刻に適しており、デザインで競争する必要がありました。そこでムラノガラス の巨匠たちは、100年以上にわたってムラノと高級ガラスを代表するデザインで応え、確立させました。その中でも代表されるのが、高級ムラノガラス を代表するデザインの巨匠ジュゼッペ・ブリアーティは、ムラノを象徴する花のシャンデリア『チオッチciocci』と、何百〜何千ものハンドメイドのパーツからなるシャンデリア『レッツォーニコrezzonico』のデザインを手がけました。

ムラノガラス の最盛期

16世紀には、ヴェネチアングラスは最盛期を迎えます。ヴェネチア共和国は、アドリア海の女王と呼ばれた豊かな貿易立国で、外交に優れた国であったことはいうまでもありません。また、ヴェネチア共和国はスパイや諜報活動にも大変優れており、ガラス職人のあいだにも浸透していたそうで、16世紀には各ガラス工房の秘密を盗むスパイも存在したと言われています。いわゆる「産業スパイ」という概念が、16世紀のムラノ島には存在していたようです。

ヴェネチア共和国政府は、行政指導が徹底されていたため、ガラス職人や工房が新たな技術や製法を考案すると、特許のようなもので、独自のものとして承認し保護しました。これは、ある一定期間は考案した職人および工房の専売特許として認められ、期限が切れるとその技術は一般公開されて他の工房でも使用可能でした。ただし、13世紀以来の法令は継続して、ヴェネチア共和国政府は名のあるガラス職人たちの他国への移動や技術の輸出を厳しく禁じていました。

ヴェネチアの貴族の名が記される『黄金の名簿(Libro d’oro)』が19世紀に出版される前に、ムラノ島では既に17世紀はじめに『黄金の名簿』が作成され、著名なガラス職人が掲載されていました。ヴェネチア共和国においては、経済界におけるガラス工芸品が占める割合は高く、ガラス職人は高い地位にありました。

ムラノガラスの彫刻や装飾の分野でも、絶え間ない技術革新が行われ、17世紀末には、歴史的に有名な花柄シャンデリアのデザインを考案したり、ムラノガラスの巨匠たちは、何世紀にもわたり、ヨーロッパを代表する高級ガラス製品の生産者となりました。その中でも、ムラノビーズは、小さな製品にもかかわらず、ムラノの商業的成功に不可欠な要素であっただけでなく、国際貿易の発展や歴史においても重要な役割を果たしました。

ムラノビーズ

1400年代初頭から1700年代末までの大航海時代、インド、アフリカ、アメリカ大陸で交易を始めたヨーロッパ人は、通貨に興味を持たず、むしろ装飾品に高い価値を置く民族に出会い、ムラノビーズは商人の船乗りによって、香辛料、象牙、パーム油、そして奴隷と交換されました。

1492年に初めて「新大陸」に到着したクリストファー・コロンブスは、サンサルバドルの原住民にムラノガラスのビーズをプレゼントしたと言われている。ムラーノ島のガラス工場では、年間約900トンものビーズが生産され、「貿易ビーズ」のちに「奴隷ビーズ」とも呼ばれるようになりました。

この「貿易ビーズ」はムラノガラスの製品の一つですが、ムラノガラスとして認識されることがありませんでした。それとは対照的に、ムラノガラスの小さな「ロカイユ (Rocailles)ビーズ」は、当時国際貿易の道具であると同時に、ヨーロッパにおける富の象徴でもありました。針とほぼ同じ大きさのロカイユビーズは、刺繍や織物、宝飾品作りに使われました。

ロカイユビーズ

ムラノ島で発明された溶融ガラスを「引っ張る」というユニークで革新的なプロセスによって、ガラスビーズから何十億個ものビーズを生産しています。ガラスを引っ張ることで、後にビーズの穴となる小さな気泡をガラス棒に沿って入れることができ、従来のように1つずつ作るのではなく、1本のガラス棒から一度に何千ものビーズを作ることができました。ムラーノは1400年から1700年までロカイユビーズの生産を独占し、その生産は20世紀までムラノ島にとって商業的に重要でした。

ヴェネチア共和国滅亡後のムラノガラス

1797年、ナポレオンによるヴェネツィア共和国の崩壊後、ヴェネチアとムラノの島は文化的・商業的に大きな衰退を遂げました。本当のムラノ島の打撃は、ナポレオン帝国の崩壊とハプスブルク家のヴェネチア支配でした。ハプスブルク家は、ムラノガラスよりもボヘミアンクリスタルガラス を好み、1815年から1835年までの20年間、ヴェネチアへの原材料の輸入を大幅に削減し、課税しました。

ハプスブルク帝国の20年間で、ムラノ島の工場の半分近くが閉鎖され、残った工場はビーズやガラス瓶など、純粋な商業製品を生産していました。大航海時代が終わり、ヨーロッパ各地に商業用ガラス生産地が複数存在しました。こうした状況は、ムラノのガラス職人の創造性を長期的に満たすのは困難でした。

長らくオーストリア帝国に支配下にありましたが、1861年にはイタリアに統一されます。そうした歴史に翻弄されながら、一時期、ヴェネチアンガラスの製造の停滞期がありました。

1900年代初頭のムラノガラスのアートとデザイン

皮肉なことに、1800年代半ばから1900年代半ばにかけて商業用ガラス製造が完全に姿を消す中、復活し、繁栄したのは高級ムラノガラス製品の製造でした。ムラノガラスの巨匠もデザイナーも、ムラノガラスを使ったモダンなオブジェの可能性に互いに触発されていきました。

20世紀に入り、伝統を重んじてきたガラス職人は、古い伝統を重視しつつも技巧を改善し、現代の流行に合う作品を製造し始めました。古典的な意匠を維持してきたムラノ島のガラス職人たちは、現代アートの要素をガラスに取り入れるようになりました。数世紀にわたってつちかわれてきた伝統的な技術を基に、新たな芸術を開拓した職人たちのガラス作品は、モダンで、オリジナル性があり、ヴェネチアンガラスの名声をさらに高めることになりました。

1921年、モダンなデザインのムラノガラスを製造する最初の『ヴェニーニ』社がオープンしました。その後、多くの古いガラス工房や工場が、純粋に職人的なムラノガラス生産から、20世紀のムラノを代表する前衛デザイナーとのコラボレーションによるデザイナーズガラス製品の生産へと移行して行きました。1982年には、ヴェネチアにおけるガラス生産について最初に触れた982年の古文書から1千年が経過したことを祝って祝典が開催されました。

現代のムラノガラス

今日、ムラノ島のガラス作品は、小さな吹きガラスのジュエリーや洗練された大きなシャンデリアなど、高級品として高く評価されています。ルネッサンス期に先祖代々受け継がれてきた古典的なスタイルから、デザイン時代のすっきりとしたライン、イゴール・バルビやマッシミリアーノ・カルデローネのような大胆な現代彫刻まで、ムラノのガラス職人たちはさまざまなガラス製品を作り続けています。ムラノ島では、瓶のような安価に生産しやすい実用品の商業生産はもはや行われていない。900年以上にわたって培われた技術や技能が、現代の芸術的ビジョン、そしてもちろん変化し続ける人々の好みと融合し、常に新しく、より美しいデザインのムラーノガラスを生み出しているのです。

現代において、ムラノグラスの巨匠たちは、過去にムラノの巨匠たちが発明した有名な形やスタイルのガラス細工を模倣して作られたガラスの大量生産という商業的脅威に直面しています。これらの製品は低価格で生産されるため、本物のムラーノガラスよりも低価格で販売することも可能である。しかし、ルネッサンス期にボヘミアン・クリスタルとの競争にさらされ、ハプスブルク家の弾圧から立ち直るのが難しかったように、ムラノのガラス職人たちは、よりオリジナルでユニークで美しいムラノガラスを作ることでこの挑戦に応えています。