ヴェネチアの島々

ヴェネチアの島を中心に、周辺には様々な歴史をもった島々が存在しています。
ガラスの製造で有名なムラノ島からレースの製造や色鮮やかな原色の家が並ぶ光景で有名なブラノ島、大建築家アンドレア・パラーディオ建築で有名な教会のあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島、ヴェネチア映画祭で有名なリド島等、様々な島々が存在しています。
そんな島々の歴史や文化をより楽しんでいただく為に、ご希望に応じて、お勧めのプランをコーディネートします。

 

ムラノ島

世界的に有名なヴェネチアンガラスの製造を数百年にわたって行っているムラノ島では、ガラスの島ならではのお店やガラス博物館、ガラス工房をのぞいて買い物を楽しめます。ヴェネチアンガラスと言いましても、シャンデリア、グラス、飾り物、置物、アクセサリー、ビーズなど様々な製品があります。

今日ヴェネチアでみられる幅広いガラス製品は、1000年以上の歴史の中で、時代の変化に順応にしながら、常に発展して製造されてききました。
これからご紹介しますヴェネチアンガラスの歴史を知っていただくことで、街中の至る所にあるガラスの店頭に何気なく並んでいるヴェエンチアンガラスの価値を感じて頂けたらと思います。
ヨーロッパの考古学博物館に行くと、必ず古代ローマ時代(紀元前1〜5世紀)のガラスが展示されています。ヴェネチアンガラスの歴史は、ローマ時代に作られたガラスの製造からはじまっています。今日もヴェネチアンガラスの根本的な技法である「吹きガラス技法」は、古代ローマ時代に既に発明されており、製造されていました。ただし、ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びた5世紀にガラスの製造は衰えてしまいました。

8世紀頃ヴェネチア共和国は、ヴェネチア人発祥のトルチェッロ島から、共和国の拠点をヴェネチアのリアルト島(現在のリアルト橋近くの市場付近が一つの島だった)に移し、教会が沢山建てられ、その影響でガラス工房も多くリアルト島に移ってきました。その後、11世紀にはサン・マルコ寺院の内部の天井から壁の全壁面にガラスのモザイクを描く為に大量と多色のガラスの製造が必要になります。こうした中で、ヴェネチアにおけるガラス技術は更に発展していきます。

13世紀には、ヴェネチア共和国の政令、保護下で『ガラス製造業者、その助手、家族等のすべてをムラノ島に集中的に移住し、島外に脱出する者には死罪を課す』という厳罰体制の管理が始まります。理由は2つの説があります。一つは、ガラス原料を溶解する釜の火が原因でヴェネチアの島が火災に遭わないようにとのことです。もう一つは、当時ガラスはヨーロッパではヴェネチア共和国が独占的に製造していたので、ヴェネチアの島に商売で滞在する外国人達に、ガラス職人が買収されてヴェネチアンガラスの製造法を伝授して、外国にガラス製造を盗み学ばれないようと言うことでした。こうした環境下でヴェネチアンガラスは発展して行きます。

16世紀まではヴェエンチアンガラスが、ヨーロッパで製造される唯一のガラス製品で、富裕層や王族が彼らにとっても高価なヴェネチアンガラスを競って購入したそうです。17世紀になるとイギリスの鉛ガラスやボヘミアンガラスなどが流行し、ヴェネチアンガラスも陰りをみせてきます。

18世紀には産業革命の影響で、手工業が衰え、18世紀の終わりにはナポレオンがヴェネチア共和国が滅ぼし、共和国政府のガラス産業庇護も終焉し、5世紀続いたガラス職人組合が解散します。

19世紀には近代化の中で、過去のガラスの復刻や教会モザイク画修復の為の色ガラスモザイクの製造、その他新しい試みのインテリアや芸術性のあるオブジェなども作られるようになりました。苦境の時代を超えて、ガラス工場の建設、過去の閉鎖的な歴史からの脱却、職人と弟子の教育システムの改善など、様々な分野において近代化の波にのり、過去の栄光を復活させ、今日に至るまで世界的に有名なガラス産業を維持しています。

栄光のガラスの歴史を背景に、苦境の時代をむかえながら、歴史と努力で境地を抜けてきたガラス職人の存在が、今日にいたるまで常に新しい技術を試作し続けてきました。

 

ブラノ島

ブラノ島は漁業とレース作りで有名な島でもありすが、その一方で色鮮やかな原色の家が並ぶ光景はこの島の特徴です。まるで、「おとぎの国」もしくは「おもちゃ箱」のよう景観をもつ島です。思わず写真を撮りたくなるアングルが島のいたるところにあります。のどかな環境と現実離れした色鮮やかな家並みが、ほのぼのとした気持ちにさせてくれます。
ヴェネチアの島々の中では、ブラノ島は昔から漁業の島として有名な島でした。漁業に使う網は妻達が作ってしました。そうして網を編む習慣の中で、レース編みが誕生したとも言われています。

ブラノ島の連なる家々は日本で言う、いわゆる長屋のようなつくりになっています。2、3階建てのミニチュアのような建物が隣接して横に長く伸びて建造されています。その横に伸びた建物を縦に色分けして、各家を分けています。ヴェネチアの潟地帯は霧がよくでます。何故色分けするかと言うと、早朝から漁業にでていたご主人が家に戻るときに、霧が出ていても船から各自の家がわかりやすいように色分けをはじめたと言われています。 

ある資料では15世紀から既にブラノ島でレースが作られていたそうです。16世紀終わりから発展して17世紀には、ヨーロッパの富裕層や、特に貴婦人達の間でブームをまきおこしました。今日もレース学校(1872年−1970年代。現在はレース博物館)に通った最後の世代の方々が貴重なブラノレースを作り続け、その方々から細々ながら次世代の女性達が学び続けて伝授されています。
昼食には、地元の人達に長年愛されてきた1946年創立の老舗ガット・ネロ(黒猫)やロマーノでブラノ島ならではの新鮮な魚介類を味わうことをお勧めします。

 

トルチェロ島

ヴェネチア人発祥の島とされる歴史深い島では、最古の教会サンタ・マリア・アッスンタ教会(639年)があります。教会のすぐ近くにあるロカンダ・チプリーニ(Locanda Cipriani)では、中庭や教会を眺めながら、レストランのシェフならではの洗練された料理を楽しんでいただけます。ロカンダ・チプリーニは1934年に創立したレストラン兼ホテル老舗です。イギリス王室が食事に訪問された場所でもあり、特に有名なのは作家へミングウエイが大変好んで通い、滞在しながら小説を書き上げた場所としても有名です。

 

サン・ジョルジョ・マッジョーレ島

9世紀にベネディクト派の修道院が建てられ、最初は聖人ジョルジョに、後に聖人ステファノに捧げられました。今日ある教会は16世紀の大建築家アンドレア・パラーディオの案で、16世紀に建築が始りました。ファッサードは4本の太い円柱で、上部の三角形のティンパヌムを支えています。これは古代ローマの凱旋門から影響を受けています。聖人ジョルジョと聖人ステファノの像以外に、重要な共和国時代の国家元首の胸像が「死のモニュメント」という意味合いで、象徴的に正面に飾られています。

白い天井から壁と光の効果で、内部が大変明るく、聖なる場所のような空間を思わせます。内陣には16世紀を代表するヴェネチア派の画家、ティントレットの2作右の壁には「最後の晩餐」左の壁には「麦藁の収穫」が展示されています。 ティントレットは、生涯光の効果を探求し続けた画家と言われてきました。

「最後の晩餐」では、光点は天井から降りてくる明りとキリストの後光の2箇所に集中されています。画面斜めに設置されたテーブルに12使徒と召使が群がるように描かれている。一般的に聖なる場面として描かれる当時の「最後の晩餐」とは 異なり、庶民性が強調して描かれています。そんな中、光のあたっていない暗闇に天使達が描かれ、詩的効果やまた幻想性が表現される一方で、籠の中をのぞく猫が 現実感をだしています。曖昧に神秘的な世界と現実的な世界を表現しようとするティントレットの明確な意図が読み取れます。奥には素晴らしい木彫りの祈祷席があります。

左の後方には、鐘楼に上るエレベーターがあり、素晴らしいサン・マルコ広場やヴェネチアの島全体、リド島などのラグーナに散在する島々が眺められます。

 

リド島

ヴェネチアのラグーナとアドリア海を分ける役割をしている細長い島で、長さ12km、幅は広いところで4kmです。ヴェネチアにある島々の中でも歴史深い島で、本土から逃げ住んだ古代ヴェネチア人達はサン・ニコロとマラモッコに住み始めました。19世紀の中頃から、イギリスのロマン派詩人のバイロンなどや貴族達がアドリア海に面した長い砂浜の海岸に通い、リド島が有名になります。世紀末にはホテルの他住居も建てられるようになり、夏の避暑地として更に有名になりました。この時期に建てられたネオゴシック様式やアールヌゥヴォーの建築が今日も街のところどころにもられます。トーマス・マンの「ヴェニスに死す」をルキノ・ヴィスコンティが映画化した際に、主人公が過ごすホテル「デ・バン」は今日も残っています。14世紀に作られた歴史深いユダヤ人のお墓もあります。

今日リド島と言えば世界的に有名で、歴史深いヴェネチア映画祭が8月終わりから9月初めに行われ、毎日のように世界中の有名な監督や俳優から報道陣が集まります。イタリアがまさにファシズム時代の1932年開始され、戦時中一時的には中断されましたが、戦後再開しネオレアリズムで世界の映画界に多大な波をおこしました。イタリアを代表する映画監督、ロッセリーニ、ヴィスコンティ、アントニオー ニ、フェッリーニ、パゾリーニなどを世に送った場でもありました。

 

サン・ミケーレ島

以前は単なる無人島で、自然災害など、嵐があった際などの避難場所としてつかわれていた島にすぎませんでした。また、東方交易の中心地であったヴェネチアは宿命的にペストの中継地ともなっており、感染者を周囲の小島に隔離する政策を取っていたので、自然と本島には墓地が少ない状況になっていました。

1807年に当時ヴェネチアを支配していたナポレオンが指示して、ヴェネチアの墓地が作られ、今日見られるような壁で取り囲まれた四角いかたちをした島となりました。これらの壁から沢山の糸杉が目立ち、島内部は多くの緑で覆われた自然豊かな空間で、1837年に衛生上の理由により、町に墓地を設置する際に、もとはサン・ミケーレ島とサン・クリストーフォロ・デッラ・パーチェ島の二つの島に分けていた小さな運河を埋め立てて、一つの島に造成しました。

1469年から建設されたサン・ミケーレ・イニーゾラ教会と墓地の中にあり、とても小さく、美しいサン・クリストーフォロ教会があります。墓地はユダyヤ教、カト ック、正教会、プロテスタントなど故人の各宗派別に分れています。ここには世界的に有名な芸術家セルゲイ・ディアギレフやストラヴィンスキー達の遺体が眠っています。ロシアバレエ音楽の父、作曲家ストラヴィンスキーのお墓は妻のお墓と隣接して作られ、石で「ト音記号」が描かれています。不世出の天才ダンサー、ニジンスキーが踊った『春の祭典』や『牧神の午後』の作曲家です。また、そのニジンスキーを発掘し育てた大興行師ディアギレフのお墓は小さなトゥ・シューズが供えられています。

イタリアでは墓地に入った瞬間、全ての墓が花で埋め尽くされた全景に圧倒されまが、よく見るとそれらの花はほぼすべてが造花なのに驚かされます。それ故一 年中季節を問わず花で覆われています。壁に花束が並ぶのは共同納骨堂です。こちらの埋葬は火葬ではなく土葬のため、一旦墓石の下に埋葬された後、数年後に掘り出されます。この島はもう定員オーバーの状態で、敷地がなくなっているそうです。その後、再埋葬の費用を支払って永代供養が可能になるのだそうです。また一般区画の棺は 12年経つと、別の島に埋葬しなおされるのだそうです。

昔ヴェネチアでは、お棺は専用のゴンドラに乗せてサン・ミケーレ島に運ばれていたそうです。今日は専用ボートで運ばれ、遺族、親族、友人たちを乗せたはボートがその後を続きます。葬送の長い列は遺族が選んだヴェネチアの教会から小運河を下り、島の裏側のラグーナへと出てサン・ミケーレ島にむかいます。

 

ジュデッカ島

約9世紀に追放された貴族達にこの島の土地を与える時に、共和国が提出していた公文書を「ジュディカート(判決と言う意味))と言い、この言葉からジュデッカと呼ばれるようになったそうです。以前はこのような追放された人々が住む島だったのですが、16世紀になるとサン・マルコの素晴らしい景観を眺められる好ましい立地条件から、貴族達の遊び場の島となり、畑や庭のある別荘などが建てられるようになりました。その他、修道院や荷物倉庫も建てられるようになり繁栄していきました。

16世紀の大建築家アンドレア・パラーディオによって建てられたレデントーレ教会、 同建築家の案の下に建てられたジッテッレ救貧院の教会堂などがあります。今日では、ヴェネチアでは庶民的な住宅街である一方で、ヴェネチア一の高級ホテルと言われるチプリアーニやそのレストラン、イヴェント会場あり、世界的に有名な人達や富裕層外国人の別荘がヴェネチアとは思えないような現代建築で建てられ、現代になっても16世紀の共和国時代のような特色をみせる奥の深い島となっています。